有限会社ヤマト字彫工業

墓石、記念碑、表札や看板。
私たちは、切り出され、磨かれた石に、
さまざまな文字を彫ります。

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有限会社やまと字彫工業
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田んぼのなかに石がごろごろ

真壁の町並み
真壁の町並み

タウンページで、茨城県桜川市・石材業で調べると、ゆうに見開きページ分びっしりと石材業者のリストが出てきます。その大半が旧真壁町・大和村地区に集中しており、この地区の人口約27500人の中でのその割合にはおどろいてしまうほどです。
関東平野の普通の農村の風景は、昭和40年から50年代の好景気の時期に激変しました。一気に石材業者が増えたからです。
住んでいるとなんとも思わない、当たり前の景色として目に映りますが、この筑波山から連なる山並みのすそ野に広がる、緑豊かな田園のなかに大量に置かれた石、石、石。至るところにです。
もしかして、こんな光景は、全国的にもかなり珍しいものなのではないでしょうか?
では、どうしてこんな風景が出現したのか?
どうやって、ここまで真壁の石材産業は発展してきたのでしょう?

山から出る上質な白い御影石

真壁の町並み
真壁周辺の山並み

 その美しい山影から、関東平野の紫峰と呼ばれる筑波山。その北側から、低く穏やかな山並みが南北に連なっています。
足尾山、加波山という名の小高い山々は古くから良質の花崗岩が採掘できる場所として知られていました。
江戸時代には、名工と呼ばれた石工が切りだされた花崗岩で、地元の寺社の山門や燈籠を加工したという記述が残されています。

今日ある真壁町における、近代的な石材業の歴史は、明治20年代初頭から始まります。
近代国家の黎明期、レンガや石造りの西洋建築を続々と建て続ける東京からそう遠くない距離にある石の産地として、重要が急激に高まったことに呼応して、加波山中腹で、火薬の爆破による大規模な採石ができるようになったためでした。
明治22年(1889)、水戸線が開通すると、それまで大変な労力を必要とした石の輸送方法が格段に効率化され、東京方面に大量に運び出されるようになりました。
明治33年(1900)には、当時赤坂離宮と呼ばれた、現在の迎賓館建築に大量に採用され、その堅牢さとつややかな石肌の美しさが広く世に知られ、石の産地である真壁の知名度は一躍高まったと言われます。

真壁の町並み
採石場

 大正7年(1918)、水戸線の岩瀬駅と筑波山のふもと筑波駅を結ぶ筑波鉄道が開通し、4年後、石材輸送の起点として、加波山のふもとに樺穂駅が開設されました。
そして石の運び出しのために、山の採石場から樺穂駅まで5.8kmの軌道が敷設され、輸送手段が飛躍的に発展し、地元は活気づき樺穂駅周辺には多くの石材業者が集まりました。
この時期が、現在の地場産業としての石材業の本格的なはじまりです。

昭和の激動期

大正12年(1923)の関東大震災によって壊滅的な打撃を受けた東京のその後の復興にも真壁の御影石は活躍します。 新たに建てられる建造物や道路の普請に大規模に使われました。

昭和の時代になり、産業として安定した発展をとげ、首都圏への石材の産出地としての確固たる地位を築いていきました。

石材業にも、やがてきた戦争の時代は重くのしかかり、厳しい経済統制のなか、工場の設備品や道具類の救出を余儀なくされ、暗く停滞した年月を耐えざる負えなくなりました。

そして、昭和20年終戦直後、興味深いエピソードが残されています。
飢餓的状況に陥った、食糧難の東京より、食糧対策用の粉食を作る道具として、2万個の石臼の注文があり、低迷していた石屋さんたちをおおいに活気づけたそうです。

今日の隆盛のはじまり

真壁の町並み

 昭和30年代、日本は高度成長期に突入していきます。
今日働けば明日確実に豊かになる時代、日本中が活気にあふれてきました。
石材業界でも、ダイヤモンド工具の開発改良など石材加工の技術革新がめざましく、新たな業界参入への敷居が低くなったために、それまで農家だった人達が農業をやめ一気に石材業に転業してきました。
昭和33年(1958)には、業界の団結と調整をめざし、真壁石材協同組合が設立されました。
山々からは、石を切り出す爆発音が毎日のように聞こえ、たくさんの石切工場が建ち、水しぶきをあげ石を切断する音が響き渡り、生産に追いつかないほど需要があり、大型のトラックが製品を積んでひきも切らず往来した国産加工の全盛期、昭和50年代より平成に入る頃、真壁の石材業は最盛期を迎えました。

地場産業の転換期


 しかし、現在に至る状況になる大きな転換期が訪れます。
平成に入って以降、多くの企業がコスト面での効率化を海外に求めたように、石材も、石の切り出しから製品に仕上げるまで国内総加工から、韓国や中国で完成品にして輸入し販売するやりかたに変わっていきました。圧倒的に安く仕上げられるからです。
自分の工場で石材を作ってきた石屋さんの多くも徐々に、輸入された海外製品を売買する業務を担うようになっていきました。
時代の流行も白系の昔ながらの墓石よりも、中国やインド産の黒系の石が好まれるようになったのもその一因です。
国内製品より輸入品が主流になる時代になりました。
地元の石材加工業者にとって厳しい時代が続いています。
しかしながら、堅牢で硬質、長年の風雪に耐えうる、品質劣化の少ない日本特有の風土に適した「真壁の小目石」の人気が根強く、現在でも価格的にも質的にも最良の墓石として引きあいも多いため、この真壁地方はまだまだ東日本屈指の石材業の土地として、他に追随を許しません。
また、長い年月をかけて築き上げた真壁の石材加工の技術は極めて高く、なかでも地元の伝統工芸士の作る石灯籠の美しい姿は輸入品では決して替えることはできません。

明治より地場産業として120年もの長い間、絶えることなく発展・進化を重ねてきた石材業。石に対する知識と見識、技術、ノウハウを持つ業者がこれほど集まっている土地はありません。
これからも、その時代、時代に適応しながら柔軟に変化して展開し、次の世代にまた新たな発展をとげ受け継がれていくものと思います。

真壁石材協同組合後援
真壁町歴史民俗資料館編
「石とくらし―真壁石物語―」のなかの
林 雄氏の寄稿を参照させていただきました。


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